逢魔時になると
手が伸びてくる
蓮の茎のように
叫ぶようでもあり
時には「助けて」と声が録音されていて
昔は応える「べき」なのだと履き違え
人に制止されてハタと気づく
「お助け~」とは自分自身の声であったかと。
どうも
失くし物の数こそ少ないが
モノの大きさばかりは肥大していくようだ。
昨年はとうとう自転車に乗ってきたことを失念し
そのまま幾日かが過ぎ
乗ろうと思ったら見当たらないので
何処かに止めままなのを思い出そうとして歩きまわるが
すでに片付けられてしまったのか
自転車は見つからなかったのであった。
探しているモノばかりが見つからないのはどういう理由だろう。
20年以上前に模索舎で買った究極Q太郎さんの詩集も
しまいこんで見つからない。
もう紙もゆるゆるしているけれど
手になじんだ1冊なのだ。
表紙には
何かをつかもうとして宙に向かう手が一本描かれ
ラブ、アイリス、そしてライフという文字もあった。
こんなことを思い出したりするのも
数日前に届けられた2編の小説のおかげなのだった。
心がキシキシと音たてた
トイレの上の回るヤツほどの懐かしさと
無人の街の皮膚感覚と
デンドロカカリヤの主人公の耳に響いてきた緑化週間を啓発する声。
というわけで
今日も
逢魔時になると
電話は鳴り、メールは届き
それぞれが色々なことを訴えてはくるのだけれど
どの手も
とりこぼしながら
自転車
買わなけりゃと
ぼんやり思う。