公園の灯かりの下で食べるお弁当

おにぎりに目をつけて口をつけると顔になる。

今ではキャラ弁当と呼ぶらしいが

昔わたしの母が作ってくれたのは

あらかじめ設定のあるキャラなどではなく

クマの形のホットケーキにレーズンで目をつけたのや

うずらタマゴの途中を切り取って口にしたヤツに、ゴマ二つを目にしたのだとか

彼女独自の絵かき弁当だった。

 

その後、彼女が離婚をし働き始めると

シンプルを通り越してかなりシュール、いや。

言い換えれば乱暴な弁当になっていった。

 

今にして思えば

弁当など作る体力も時間もなく

大変なことだったと簡単に想像できるし

第一甘ったれていた。

己でなんとでもすればよかったのだ。

 

喧嘩をした日には、白米に一切れのシャケが乗せられているだけの日もあり

あまりのショックに無言で

蓋をもう一度閉じてしまった覚えがある。ヤラレタ。

 

 

わたしにも工夫をこらして作ったお弁当の思い出がある。

それは特別どこかに出かける日でもなく

ただ相手が蓋を開けるとき

ちょっと驚くのを想像して

ニンマリしながらつくるシロモノだった。

実際、それで喜びたいのは私だった。

 

日暮れた公園と虫のジロフォン。

ほのかに照らす外灯の下に自転車を止めて食べた

何でもない日のお弁当。

記憶に残るのは、案外普段の瞬間の場面だったりする。

 

「わが町」という演劇の中でも

日常の普遍的な場面が切り取られていた。

何事も起きることのない

特別ではない1日。

 

 

わたしは今でも公園で缶コーヒーを持って

気の向くままベンチか草の上で話しするのが好きだ。

 

 

 

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誰も寝させない

意地悪なベンチが増えていく。

ゲート、仕切り

「公」の文字が切り崩されていく。

結局それは私の暮らしそのものを汲々とさせていくことにつながる。

何もかもそうだ。

今日どこかで起きている出来事は

やがて私に返ってくる。

 

 

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待つものはこないだろう

こないものを誰が待とう

と言いながら

こないゆえに待っている

 

*石垣りん「風景」によせて