彼女は決して人と目を合わせない。
どこか別の遠く、
目の前に立つ人間とは別の方向を見つめながら、いつも慎重に言葉を選んだ。
話しかけられる度、肩をすくめ頭を低くして一歩引いてから
「いえいえ、そんな」と
私なんかがという具合にいつでも遠慮をした。
それでも表情も言葉も柔らかな女だった。
いつも他人を優先し
ゆずり続けたその人は
重たすぎたはずの「家」まで背負い込んで
とうとう心より先に身体が壊れてしまった。
今、彼女は病室の白いベットの上にいて
握手した手のあまりの軽さに戦慄する。
着るものでも食べるものでもリクエストがあるのであればよかったが
天井を見つめたまま
「いえいえ そんな」と
何も欲しがらない。
ただ一つだけ話している中で「高い場所が好きだ」と言った。
まだスカイツリーには昇っていないのだと言った。
いつか。
いつかなどとわたしは言い
それがどれほど無責任な言葉かを飲み込みながら
「いつか一緒に行こうね」と言う。
アスファルトが焼けた道を戻るとき
苦く怒りがこみ上げてくる。
(ただしそれはその人の領域に勝手にわたしが踏み込んでいるだけのことだ)
ゆずり続けた貴女よ
静かに天井を見つめている人よ
そうして何もかも受け容れ続けてきて今
何か一つくらい「あれがしたい」「これが欲しい」と
言って欲しいのは私だ。
くそっくそっと地を蹴る